【Mummy-D&KOHEI JAPAN】令和の東京で江戸さんぽ! 文化と暮らしを体感できるイチ推しスポットを巡る旅
Mummy-D&KOHEI JAPANの遠い目症候群#12
■江戸っ子を熱狂させた文化を身近に感じる「歌舞伎座」
(by KOHEI JAPAN)
今や日本の重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産でもある「歌舞伎」。ルーツは慶長8年(1603)、出雲阿国が京都で「かぶき踊り」を創始。これは、奇抜な格好や振る舞いをする「傾き者」を模倣した、歌と踊りと寸劇を組み合わせたもので、全国的な人気を博したそうです。かぶき踊りの人気を受けて、遊女を含めた女性たちの「女歌舞伎(おんなかぶき)」や、前髪の残る少年たちの「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」が始まりますが、いずれも風紀を乱すという理由で幕府に禁止されます。そこで次に登場したのが、成人男性中心の「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」。歌舞伎を男性だけが演じる過程で「女方(おんながた)」も生まれ、今日の歌舞伎の基礎が江戸時代に次々とでき上がっていくのです。
江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)、中村座の猿若勘三郎が中橋(日本橋と京橋の中間)に芝居小屋「猿若座」を興したことが始まり。元禄時代には江戸の芝居小屋は4つ(江戸四座)となり、江戸歌舞伎はますます発展していきました。「役者の氏神」といわれた市川團十郎をはじめ、市川團蔵、岩井半四郎、尾上菊五郎 などのスーパースターが絶大な人気を集め、文化・文政期には、『東海道四谷怪談』で名を残した鶴屋南北(四代目)が登場。やがて江戸歌舞伎は、大衆文化の項点に立つようになります。
明治時代になって文明開花の世となり、「演劇改良運動」というものが提唱されます。歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようという運動で、その流れを受けて明治22年(1889)、木挽町に誕生したのが「歌舞伎座」です。当初は「外観は洋風、内部は日本風の3階建ての檜造り」の劇場として作られたそうですが、純洋風の帝国劇場に対抗して明治44年(1911)、日本式宮殿風に改築されたとのこと。なんか明治っぽい話ですね。
それ以降、歌舞伎座は火事や関東大震災、東京大空襲などの影響により3度の建て替えを行ないます。そして2013年に第五期の歌舞伎座が竣工。複合施設「GINZA KABUKIZA」の4階までが歌舞伎座、7階より上はオフィスビル「歌舞伎座タワー」に変貌を遂げます。公演中だったため劇場にはもちろん入れませんでしたが、5階部分は一般開放されていて、「歌舞伎座ギャラリー」や「屋上庭園」などがあり、屋上庭園から「五右衛門階段」を下ると、「四階回廊~想い出の歌舞伎座~」へと行くことができます。「四階回廊」では歴代の著名な役者の解説や歴代の歌舞伎座の模型など、チケットがなくても見どころ満載、令和の今でも、江戸から続く歌舞伎の息吹を、充分に感じ取ることが出来ます。最後に歌舞伎座正面入り口を見上げ遠い目をワンメイク。よしっ! では我々も、次なる目的地まで「かぶき踊り」で移動しようじゃないか! ってちょっと! 先に行かないでよー!

※2025年10月撮影
■江戸深川の暮らしを体感する「深川江戸資料館」
(by Mummy-D)
令和の東京で江戸の息吹を。今回の旅の終着点は深川江戸資料館。ここはねえ、オレも今まで行ったことなかったんだけど、ぶっちゃけ穴場ですよ。
江東区にある体感型資料館で、天保年間頃(江戸末期)の深川佐賀町の町並みを実物大で再現した常設展示が人気。ま、それだけだと「ふーん。ま、よくあるハリボテのアトラクションでしょ?」と思いがちですが、ここ、すいません…ガチです(笑)。江戸深川の町並みを再現しようとする熱量が、ちょっと尋常じゃない!
実際に江戸期の現物を用いた家具や農具は言うに及ばず、もう大工さんがいなくて再現できない木造建築はじめ、細かすぎる住人や宿屋の設定など、こだわりにこだわった意匠。八百屋に並ぶ野菜に至るまでしっかり考証して作ってあって、しかもそれ全部触ってよかったりして。座敷も上がっちゃってよかったりして。でも、その作り込みやこだわりって、江戸の職人たちの心意気を一番受け継いでいるものなんじゃないかなあとも思いました。
わたくし個人的にはこの資料館内で、着流しなんか羽織ってコスプレして、茶屋で一杯引っ掛けて、〆に屋台のかけそば啜ったりなんか出来たらサイコーなのになあ、なんて思ってしまいましたが、そんなイベント、やってないですかね? やってないか(笑)。施設を出るといくらでも赤提灯ありますんで、そちらでやってください。

細部に至るまで徹底してリアリティを求める展示に感激。本当にタイムスリップしたかのような感覚になる。